ぼやき。その1 - objective syndrome –

ぼやき

ryu.です。
今回はちょっとしたエッセイ的なsomethingです。自分が中坊だった頃の戯言だと思って読んでみてください。

客観の暴走

ある文章を精読して真の意味で理解しようと努めるとき、邪魔になるものがある。それは主観だ。主観は自分という枠の外にあるものをぼやけさせてしまう、いわば誰しもに備わった「色眼鏡のフレーム」である。私は高校でせこせこ受験勉強に勤しんでいた間、その主観を排してものを考えていくことを追い求めてきた。それは当然、知識の刷新にとって邪魔になるからである。今回はその客観的の暴力性、なのかは分からないがそれについて何となく書き留めていこうか。

極端な話ではあるが、今までは自分が世界の中心にあるという錯覚さえ盲信した時期もあった。いわゆる独我論であり、決してよく言われる自己中心的であったわけではない。周りの人間は全てRPGゲームのNPCであり、私がどう動くか事前に決まっていてそれを映画のフィルムのようにーー現在の視点からより正確な表現をするならVRを覗き込むようにーー眺めているだけなのでは、と。だから、そのフィルムが終わればその人の「人生」が終わり、こうしたフィルムが遍く存在する高次元の世界があるのではないか。緻密すぎる世界線が何個も構築されてそれを統括する世界が存在すると仮定すれば、人生が終れば無に帰すという不条理な思想にも「天国」や「地獄」や「輪廻転生」だとかいうエゴイスティックな世界観にも矛盾しない。今でもその思想が否定しきれないでいるところに私の限界を感じるのもまた事実。平面上のカエルに空間内にいる我々の認知は難しいと言うが、要はそういうことだ。

話を元に戻そう。私は小中高と特別進学に適した、いかにもエリートのような人生を送っていたというわけではない。それゆえにその中で当然多種多様な人と出会うわけだ。スポーツで世界王者になって大手企業へ就職を果たした者や同じく勉学を志して塾通いし名門大学への進学を目指す者、そして各々の才能を生かした道に進んでいく者や暴走族に仲間入りして夜な夜なバイクを乗り回す者までーー。それぞれの人生観や価値観も当然バラバラである。
しかし、私は特段誰かを嫌悪することはなかった。というより、その必要がなかったという方が正しい。もちろん、私を殺める必要もあった。話の馬を合わせたいがために自分の本音を押し殺すことさえも、他人との関係を重視したい自分にとっては優先だった。それは己を主張することよりも、である。そこに長期的な自己撞着が起こるのは免れないのだが、他人との関係を上手く立ち回れた(と自負している)当時の私にとっては瑣末だ。
問題は客観視による弊害である。「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失ってた」と歌った歌手もあるが、こういう対応をしていると言動が人に左右され一貫性がなくなってくる。主観の喪失とでも言えよう。加えて、自分は万人に受け入れられようと無意識に努めていた…のかは分からないが、とりあえず特定の誰かにあからさまに嫌われていたという感じはなかった。それ故に他人からの嫌悪に異常なまでに敏感になってしまったことがある。その空木のような人格では余りに客体に依存しながらその思想は主体に寄りすぎている。エゴに塗れて虚飾する者を、人は人格者と呼ばない。大事なのはその均衡である。過重に耐えきれず板が折れたシーソーに誰も近づこうとはしないだろう。

私は、「そんな取り戻した一視点から」今この文章を書き留めている。ちなみに全て私が中学生くらいのことなので、厨二病の一疾患として受け取ってくれればこちらとしても本望である。皆も多感な時期の思想や価値観には気をつけた方がいいぞ?

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