ぼやき。その2 - Springtime Lucubration –

ぼやき

ryu.です。

今回は新年度になってから初めての記事ということで、受験勉強ひいては広義に勉強への打ち込み方について自分なりに一度語り直してみようかなと思った次第です。
かつて自分が受験期(とはいえ2年)だった頃、夏休みにあった駿台の箱根セミナーで4つ(かな?)の先輩に「勉強だけに身入れをするにあたって如何にして障害や邪念を取り除くか教えてほしい」みたいなことを聞いたことがあったんですよね。おそらくこうした悩みを抱えている人も多いと思いますし、受験勉強をするとなった上ではどうしてもそうした状況を作ることは必要になってくることでしょう。そこで、改めて受験戦争を潜り抜けて現在大学に籍を置いて学問を志している身としてその答えを自分なりにまとめてみようと、そんな要領でこの記事は書かれております。

もちろんあくまで私の個人的な見解であるということは忘れずに。

勉学以外は邪なのか

まず当時の状況に戻りますが、その先輩からいただいた答えは

ごめんだけど、その必要ある?それさ、なんか違うでしょ

でした。当時の自身が最初に得たのは脳裏に浮かぶ疑問符の羅列でした。そしてその先輩から話を聞いた直後も自分の頭では「息抜きが必要」程度のことしか吸収できなかったのですが、現在の私目線では多少それに深みを持った解釈ができていると自負しています(月並みではあるかもしれませんが)。

私が今思うに、受験勉強のみに専心することが弊害(もう少し良い言い方があるかもしれませんが)とする理由は

学力試験による杓子定規

精神力維持の問題

排他の合理的な不必要

の3つが挙げられます。
最後のは後でいいとして、前半2つについてまず書きます。

杓子定規は思考の幅を狭める

勉強に専心するあまり、それ以外のことを軽視してしまうという事態が往々にして発生してしまいます。これは「受験」というものが今後の人生における自分のレッテルや選択肢を決定づけている以上、ある程度発生して然るべきと言われればその通りなのですが、私はあえてその思考をよしとするのはまずいのではないのかと思ってしまいます。
高校に入るちょっと前くらいに難関大学の素晴らしさや力を知り、俗にいう進学校や進学塾で勉強時間至上主義に曝された者は勉学や「勉強をするという行為そのもの」に異常に執着してしまい、それ以外のことを高校時代に捨象してしまうのを全く厭わないようになる人が多いです。現に過去の自分も(ここまで極端でないにしろ)その一員でした。しかし現に東大に入ってみたりその上に立つ人間の姿を見て感じるのは、皆勉強一辺倒な生き方はしていないということです。学問の頂点に立つものがそれでいいのかということを強調したいのではなく、あらゆる事物に興味を持っているということはそれだけ知識や考え方に深みを持っているということであり、勉強という一次元的な定規からより多次元的に思考を試みることができるようになるのです。言わずもがなこれが将来的により高度な発想や理解を生むことができるようになる、ということに繋がるでしょう。
一辺倒な価値観で全てを測るというのはなんと窮屈なことなのでしょうか。

受験は精神力がものをいう世界

漢文を齧っている人なら知っていると思いますが、元来「勉強」という単語は「苦しいことを自己に無理強いして努める」という意味であったとされています。現代においては勉強はもう少し意味のあるものとして定義づけできると思いますし、勉強とは何をすることなのかを体得しに行くのも受験勉強の醍醐味みたいなところはありますが、どこまでいってもそれは受験勉強なので将来の選択肢の決定権をそれがある程度握っている以上、苦痛を伴うものであるはずです。そんな中でそれにしか接しないでどうしてやっていけようかという話ではありませんか?人間が物を食べて、それに表裏一体の形で排泄という行為が付随しているように、ストレスや苦痛にもこうした代謝機構が備わっている必要が精神衛生的なことを考えてもあると思いますよ。
受験がメンタルが大事というのは自分は間違いないと思っていますが、決してそれは古臭い根性論なんかではないというのも事実です。いくら実力をそれ相応のところまで引き上げたとしても、結局最後に必要になってくるのは本番で実力を如何なく発揮できる強靭な精神力なのです。

見落としているはずの時間

最後に3つ目の話なのですが、そもそも「勉強以外のことを投げ打ってまでやる物なのか」ということです。これは決して受験にそこまでの価値がないということではなく、勉強以外何もしない選択を取る必要がないように感じるということになります。
まず一般的に東大をはじめとして難関大学に入るために必要な時間は、およそ一日8~10時間程度と言われています。特に平日に関しては普段の学校の勉強もあるので3〜4時間くらいが現実的なところでしょう。まあ志望校までの距離として勉強時間を使うのは個人的には嫌いなのですが…分かりやすいので便宜的に使わせてください。これを考えると普通に勉強以外に時間を割けるだけのリソースがあるように感じませんか?一応自分の受験期(というか高校時代)のスケジュールを下に載せておきます。睡眠が少ないのは時間配分が大体なのもあるのでご勘弁を。思ったより多くの時間を娯楽とかに割いているのですが、平日6時間/休日10時間程度は普通に確保することができると思いますよ(実際はもう少し日によって勉強時間が増えたりするが)。

ただ、自分には「部活」という概念が高校時代に介在していなかったので、あまり参考になるデータかと言われると微妙なのは言っておきたいです。よくある運動部みたく、平日に2~3時間/休日は半日〜一日練をしつつここまで勉強をするというのは自分には無理でしたね。そういう意味で他と解釈は異なっているのかもしれません。正直中学期までの勉強具合や志望校が志望校だったことを考えると正直無理なのは分かっていたので仕方ないと割り切っていますが、もう少し中学で勉強しておくべきでしたね…まあこの辺の話はいずれ別の記事で話しましょう。
まあこうは言っていますが、「一日12時間勉強すれば〇〇受かると思いますか?」という質問が飛び交うようなモチベの高い方であれば、この辺は心配することもないでしょうね。

最後に

東大という世間的に小さい組織の中だけ見てみても、そこには多様な人がいるのです。音楽や絵画といった芸術の世界にも生きる人、身体の鍛錬に励んで文武両道で頑張る人、類稀な奇才で周囲を魅了する人、この秀才集まる中でも抜群の成績を学業であげる人。高校時代も貴重な人生の一時代ですし、それを「大学受験に捧げる時期と捉える」のは限度があることは弁えておくと良いでしょう。もちろん、自制を効かせることが最優先になる時もありますが。
青き初春を無碍に過ごす勿れ。夜半とみなすには眩しすぎます。

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