ryu.です。
それはそうと「アポトーシス」聴いたか君ら!?!?!?
あと個人的にはYOASOBI「三原色」もだいぶ歌詞もメロディーも良くておすすめ。というか知っている人の方が多いと思うけど。
ことの発端
26日の記事に関連して、このような質問を頂きました。
Question
僕は努力出来るのも才能という言葉が努力出来ない人間の言い訳みたいで(実際そのようなことを言っている人間はそれを言い訳に努力から逃げていると思います)大嫌いなのですが、努力する才能についてryu.さんの意見をお聞きしたいです(2021/08/26)Answer
<この記事のリンクを掲載>
これに加え、友達とこの話題についてちょっと話し合ったので、その議論も踏まえてこれに回答していこうかなと思っています。
努力自体に才能は要らないが
そもそも努力出来るかが才能で決まる、という文言は「長期に渡って努め励む行為の可否が天賦の才によって決定づけられる」ということになり、個人的にはこの主張自体はある程度は否だと言えます。
才能と努力が世間的によく対比されるように、この二つは相反するものとして存在するというのは間違っていないでしょう。直向きに頑張ることまで性格のように才能で全て決まってしまうのであれば、その差だけでその人の人生を決めることになり得るくらい甚大な影響を与えることは想像に易いです。
ただ、それも人間に「平等に与えられているものか」というのは少々議論の余地があります。この世に才能100%あるいは後天的成因100%という要素は普通に考えて存在し得ません。
努力についても個人的には例外でなく、先天的に努力するという行為が好きとか、もともと小さい頃から何か一つのこと集中して取り組むの得意だった、みたいな人は存在する筈です。そのため、努力できることがある程度才能によって決定づけられるという面があっても不思議だと自分は考えません。
本当に「努力できる」とは…?
加えて、果たしてこの努力の成因が努力そのものによって全て決まるものであるとは考えていません。
要は、先のモチベの記事で挙げたように「何を努力して取り組むか」に多少依存してくると思うのです。私自身も努力出来る存在なのか分かりませんし、努力出来ていると思っているものは努力しようと思って取り組んでいるわけではなく、対象そのものに対する感情によって行動を突き動かされているのかも、と私の中では決着が付きました。皆さんも案外同じような感じなのではないですか?
私は勉強も仕事もスポーツもゲームも、はたまたそれ以外の何かであれ、やれとなったらとことん直向きに全てのことで努力出来るかと言われると正直怪しいです。
結局…
努力に才能は要らないとか努力出来るのも才能とか、どのように考えるかは主義信条の自由ですし、それが心に安寧を齎すのであれば他人がとやかくその思考を矯正する必要はないと思います。
しかしあくまで私の意見として言いたいのは、努力するという行為自体を自分のフィールドで活かすことに使えるか、あるいは自分が活かしたいフィールドでそれを発現できるかが真に大事なことなのではないでしょうか、ということです。
もちろん不肖たる一大学生の意見ではありますが。
努力についてはたびたび受験において挙がる話題ですので、以前の努力に関するこの記事も是非見てみてくださいね。
コメント