ぼやき その3 〜Alert ; Methodology〜

ぼやき

ryu.です。
投稿期間が相当空いてしまい申し訳ありませんでした。

久しぶりにエッセイ的なものを書くことにしました。普段の受験勉強の休憩がてら適当に読んでいただければ幸いです。

正しい勉強法とは

方法論的に正しいやり方とは何であろうか。
別にこれは勉強法に限った話ではないが、そちらに限定した方が私の領域として語りやすいのでそちらに拘ることは断っておく。しかし、いずれの領域においても、この問いに明快な答えを突きつけられる人間がいたとしたら、私は彼らの事を漏れなく誤謬を抱えていると指摘できよう。

人は何かを始める際、方法論で否応無しの苦しみを味わうことになるものだ。彼らにとってそれは、微塵も知らない異国の地へ地図も無しに足を踏み入れることに等しく、何かしらの導が必要であることは間違いないと言える。勉強法に限ってみても、どういった書籍をどう使用するのか、先人に倣って進める者も一定数いるはずだ。
ただ、この情報技術が発達した現代、自分と今まで縁の無かったものを始めるにあたっても導となり得る師を見つけるのは意外と容易い。ただ検索エンジンに自分のやりたいものを入力するだけで、あり得ないくらいの量の情報が見つかることであろう。

しかし、その導にはどれほどの価値があるのだろうか。
無論、先人の導を模倣することを不正解だとは思わない。それは非常に盲目的すぎる結論である。「すべての創造は模倣から始まる」と謳われているように、先人の知恵を拝借することは非常に有効である。我流からのし上がるにはやはりエネルギーの必要量が莫大すぎるきらいがある。
ただし、紛れもなく、全ての人間には異なった得手不得手がある。加えて、成功体験を生み出してきた人間の環境要因や経験だって様々である。そして何より大事なのは、成功体験をしている人間は方法論・戦略性といったファクターを自分たちでよく思索/吟味しているということである。そのため、完成された方法もボトムアップ的に時間をかけて構築され、その人にとってパズルのピースのような精緻さを以て組み合わさるようなものだと言える。個々の特性に応じた勉強法なるものが存在して良いはずであり、そこに明確な基準なるものが存在することはない。
ほんの一例だが、勉強法として当たり前になっている「参考書を何度も繰り返す」という操作だってこれが型にハマる人間とそうでない人間がいるはずだ。私の意見としてみても、磐石でありながら(これだけの言い方では)なかなか詰めの甘いやり方であると言わざるを得ない。「数学はチャートなどの網羅系を使え」「単語は全部の意味を覚えろ」「完璧にするまでやり直せ」など、学校や塾、予備校で言われた方法に1から100まで素直に従いすぎではないかとすら私は感じる。
従って、先人から教わった方法がそのまま自分の理想形と真に合致することなどあり得ないと思った方がいいのである。継承されたものをつなぎ合わせたところで、結局自分が求めていたものは砂上の楼閣に終わってしまうであろう。そもそも完璧な楼閣ともなれば建つことすらままならないだろうが。

とすると、方法を確立するにはやはりボトムアップの過程そのものを先人に倣えばいいのである。重要なのは、

鵜呑みにしないこと
情報をよく吟味すること
実践の中でも方法論に思索を巡らすこと
とりあえず継続はしてみること

の4点であろう。あえてそれぞれについて詳しく言葉を連ねることはしないが、根源にある「受動的な方法検討をしない」という点は意識してほしい。
ある方法が現段階の自分にとって正解なのかは実践の末に初めて分かることであるし、波に乗る前から致命的でもないような怪我を気にするような必要はない。何はともあれ、実力そのものを向上させる意味でも始めは流れに身を任せることも重要である。
その上で、あらゆるタイミングにおいて自分の実力や方法論をメタ認知的に見つめ続けることが、エリート街道沿いを走る羅針盤となる筈だ。はじめにそのやり方を取り入れるか検討するだけでなく、実践していく中で手応えを逐一確認する作業も必要である。こうすれば効率が良いのではないか、これは自分には合わない気がする、その程度の荒削りでも長い目で見れば大きな一歩になっていることであろう。こうした「方法について吟味する」ということこそ最初から出来るようなことでもないのだから。

ここでこのブログの根幹を脅かすことを言うようだが、私にだってどの勉強法が正解なのかは分からない。自分が東大理三という称号を手にした今までのやり方でさえ、正解はこれであると向こう観ずに喧伝できる様なものではないと思っている。これについては冒頭で述べたとおりである。このなんの変哲もない回顧録に書かれた内容でも、君たちに提供する情報ながらにして要旨が食い違うこともあろう。
しかし、これを私は「支離滅裂」という単語に集約されるものだとは思わない。ネイティブ・アメリカンの一は『問いを持った部族は生き残ったが、答えを持った部族は滅びた』と遺したと言われている。要は、現時点での解に満足している人間はその時点から常勝街道の幕切れを迎えるものだと私は解釈した。「私にとっての解」がボトムアップ的にアップデートされる中で、誰しもが提供する情報の二つを取ってさえも矛盾や誤謬を抱える可能性は往々にしてあると考えてよい。
方法も、戦略も、そして知識さえも流動的であって初めて健全と言うべきではなかろうか。

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