ryu.です。
いやあ、今年もなにやら波紋を呼んだみたいですね。東大の入学式。
今回は多くの人に便乗して今回の式辞について思うところを大雑把に書き連ねてみようと思います。
以下、まずは議論の的になっている箇所の引用を置いておきますので確認してみて下さい。
今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。
先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。(中略)この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
結局この人は何が言いたいのさ?
まず第一に批判云々を抜きに、河瀬さんはどのような論を展開したかったのか考えます。あくまで批判が殺到している件は単に具体例であり、抽象的なパーツだけ見れば「一辺倒な見方に縛られず自制心を以て客観的な行動を取れ」ということを言っているのでしょう。相対的な「善悪」という定規から乖離した本質的な核心を掴むよう努力すべしと私は解釈しました。
正義の裏返しは誰かの正義という価値観は映画作家という職業柄をよく表しており、これに加えて「悪」を存在させることで自分が「正しい」と思えることに安心しているというのも私は非常に的を射た見方だとも思います。
しかし議論を呼んでいるのはそこまでの論理立ての内容です。正直私もこの主張には思うところがあります。
前面に出過ぎた具体例
「例えば、ロシアという国を悪者にするのは簡単です。」
この文から始まる一節の展開が大きな波紋を呼んでおり、著名な学者の一部からも非難囂々といった感じです。
メディアによる引用にありがちな「悪意のある切り取り」という指摘も少々目撃します(し、その節も多少あるとは思う)が、今回に関しては必ずしもそうではなく発言そのものにも問題はあると私は考えます。
無論、真偽は知りませんが河瀬さん自身が「ロシアは悪ではない」と主張している、あるいはそうした考えを持っているとはその発言からは言えません。ロシアにもロシアの正義が存在し、今回の行動もそれに基づいたものであると考えたとて、河瀬さんの言う安寧に浸る為の一方的な「悪」と関係なく、つい先日国連人権理事会から資格を停止された通り客観的に悪と言っていいのは明白です。
当然、客観的に見つめ直して見て「結局悪はこっちで合ってた、それを改善させるにはやはりこうなんだ」でも構わないということなのでしょうが、「物事の本質を見抜け」「一方的な意見のみを取り入れるな」みたいなことを言いたいのであればもう少し例を選ぶか、仮にも東大生という秀でた人らに向けての演説ですから下手に例を出さずに進むのでもよかった気はします。結局ここも金峯山寺の管長様のお話に基づいた部分ですし。
この辺の話については私と同じく東大理三の1つ下の後輩がnoteの方で似たような記事を出していましたので、そちらを参考にしてみてはどうでしょうか。一読してみましたが、少し違った視点から書かれていて非常に興味深いですよ。
「鬼はウチ」
さて、ここからは私の論です。以下、ここからは「私の感じ方に過ぎないと思って聞いて下さい」。前述したパートは先に書いた通り、金峯山寺の管長様のお言葉についての河瀬さんなりの解釈ということです。個人的にはこの「福はウチ、鬼はウチ」という精神性には個人的に思うところがあります。
この福と鬼はそれぞれ、ある主体に対しての「正義」と「悪」の存在を如実に体現している概念と言えます。その両方に対して「ウチ」と言っているということは、管長様がギャルを装っているというわけではなく、まずはその正義/悪に問わず一度受容してみなさいということにもなるのではないでしょうか。
無論、いじめの加害者や生活に困窮していた犯罪者が相対的に善になるとかそういう「容認」ではなく、始めからステレオタイプのように決めつけて善悪を決めるのではなく一度斟酌しよう、という意味でのあくまで単なる「受容」です。
学術的な文脈などでは絶対的な正誤が存在して本質に基づいた議論を行うものだと思いますが、あくまでこの言葉は「両者の立場を尊重してあげなさい」というくらいのものだと思います。なんだか私が剣道に携わっていたのもあって武士道みたいな結論になってしまいましたが、日本の価値観による教訓なのでそんなもんだと思ってほしいです(笑)。あくまで「私の感じ方」、ですので。
まとめ
いずれにせよ、個人的にこのパートについてもう少し良いやりようがあったのでは、と思ってしまいますね…。
というか、入学式の式辞くらい下手に狙って世間から糾弾されるようなこと言うより、シンプルに激励の言葉くらいで良くないかと前から思ってるんですけど。自分も属する集団なので強いことは言えませんがそこんとこどうなんすか東大さん。
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