私にとってのモチベーション
純粋に勉強やアカデミアへの関心
正直これに尽きますね。
そもそもの話、自分が勉強を苦と思っていない上、何かを知る楽しさとかのめり込めるような何かを感じられたという点で勉強という存在は関心の対象でした。その為、勉強に向かうことそれ自体がモチベに繋がるという意識がありましたし、同期を見る感じ(私が見てきた中で)東大生や現在研究をなさっている方には結構そういう人が多い気がします。
やはり「純然たる興味から何かを行う者には、そうでない者は到底敵わない」とはよく言ったものですが、これはどの界隈においても真実だと思います。
もちろん、大学受験は過程に過ぎず、将来的に学問に携わるつもりのない人も当然いることでしょう。しかし、勉強内容についてある程度意識的に探ってみることで何かしら面白いと思える点が出て来るかもしれません。受験勉強がオブリガトリーなものである以上、折角ですので何かそうした意識を持ってみてもいいかもしれませんね。難度の高い大学に入る者ほど将来的に学問に携わるものが多い気がしますが、これはそうした意識差が篩を通じて自然的にヒエラルキーが生成した結果なのだと個人的には思っています。
加えて私の場合は将来的に臨床研究や基礎研究に携わるつもりなので(現時点)、アカデミアないしそれに準ずる環境で取り組んだ内容が直に将来活きるタイプだったからというのも、勉強への関心を向上させる一因にあると感じます。これについてはどちらかと言うと将来のビジョンに対する目的意識といえるでしょう。
私としては本当に目標を目指す上では、こうした将来のビジョンをしっかりと見据えて目標意識を持っていることがモチベを保つ上では一番大事だと考えています。何よりもこれを通じることで自分できちんと考え抜かないと出せなかった目標となり得るでしょうし、打たれ強くもなるはずです。もちろん現時点で見据えることのできる範囲で構いませんが、何も考えず「学業は学生の本分だから」「これまで良い成績取れてたからなんとなく」程度では、ほぼ確実にどこか折れたタイミングで立ち直れなくなってしまうことでしょう。
目標ゆえの強迫観念
これも案外寄与率としては高めです。
ご存知の通り私は高1から理三を目標に設定していた為、目標が目標ですのでどの段階にいても「お前勉強しないと本番ヤバいぞ、ちょっとでも遅れを取ってて良いのか」みたいな考えが生まれやすかった気がします。すると、「何かしていないと気が落ち着かない」みたいな状態だったのだと思います。
重要なのはこれに加え、その意識に抵抗・反発する気持ちがあまり無かったのも大きいと思います。つまり、平常時には焦燥感を打ち消す為に勉強から「逃避」するという選択を優先しなかったと言うべきでしょうか。強迫観念というと聞こえは悪いですが、無意識下の衝動というかなんというか…。それとも長期的に作用してきたために容認できるようになっているだけなのでしょうか。
周囲からの期待、共闘仲間の存在
私の場合、理三を狙う身としては環境が特殊だったということもあります。母校は理三どころか東大すら出たことがありませんでしたし、地域に予備校などは殆どなく、地域単位で見ても理三なんて数年に一度しか出ません。
それ故、学校からも一定数の友達からも塾からも合格を期待されており、それに応えたいという気持ち(十分驕りであることは承知の上ですが…笑)も合格したい!に付いてきた感じでしょうか。
また、これに付随して若干エゴイスティックな意義も付いてきたように感じます。気持ち悪いような理由で申し訳ないのですが…。
理三行くような連中でも俺みたいな奴ほとんどいないんじゃね!?みたいなある種挑戦的な状況に自分がそもそも結構燃えていたのはあるかもしれません。かもというかそう。
加えて、私の高校では将来の進路別にクラスを振り分けられていたのです。そのため、自然と自分のように大学受験に向けて努力し合う仲間が集まり、その中で勉強に取り組めたというのはお互いに影響を与え合う良い環境でした。クラスの人たちに鼓舞されてモチベーションに繋がったという点もあります。その点で、進学校という環境は素晴らしいものだと思いますね。
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